2022年 特集 源頼朝と稲毛三郎重成
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川崎市生涯財団の生涯学習情報誌「Stage Up」VOL.241(4月1日発行)では、今話題の「鎌倉時代初期」に、川崎で活躍した豪族(のちに御家人)稲毛三郎重成の足あとをたどっています。川崎市生涯学習財団のホームぺージ「かわさきの生涯学習情報」でも、「勝手にコラボ」と銘打ち、特集「源頼朝と稲毛三郎重成」を組みました。
- 第1回 源頼朝・稲毛三郎重成の生涯・・・・・3月24日公開
リンク集「各市町村の公式ページからたどれた「鎌倉ゆかりの・・・」 3月30日 追加
リンク集「川崎市の頼朝・義経ゆかりの場所(伝承)」 3月31日 追加 - 第2回 鎌倉を守る北の備え(川崎を中心とした城・秩父一族と北条氏の姻族関係)・・・・4月7日公開
「おまけ:鎌倉殿の13人てだれ?いつからいつまで? (勝手にコラボ)」 4月11日 追加
リンク集「川崎市歴史ガイド」(川崎市文化財団発行) 4月19日 追加
- 第3回 鎌倉街道・・・・4月21日公開
3回に分けて公開します
源頼朝の生涯(略歴)
1147年 | 尾張国熱田に生まれる。(幼名、鬼武者・鬼武丸) 父:源義朝 母:由良御前(熱田神宮宮司藤原李範の娘) 乳母は比企尼、寒河尼、山内尼 |
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1158年 | 12歳 | 皇后宮権少進に任官 |
1159年 | 13歳 | ・鳥羽法皇の皇女・上西門院に仕える上西門院蔵人となる ・右近衛将監・二条天皇の蔵人に補任(6月) ・源義朝(父)・藤原信頼とともに、平清盛の留守を狙ってクーデター。政権の奪取(平治の乱)(12月) ・帰郷した清盛に敗れ、東国へ敗走(義朝・頼朝)→義朝謀殺・頼朝京都に護送される |
1160〜 1180 |
14歳〜 34歳 |
伊豆国へ配流 比企尼の娘婿である安達盛長、河越重頼、伊東祐清が側近として仕える ・伊豆相模の武士と連絡を取り合う 天野遠景・土肥実平・岡崎美実 ・乳母の甥・三善康信から京都の情報を得る ・監視役:北条時政の娘(政子)と結婚(32歳) 長女「大姫」誕生(33歳) |
1180年 | 34歳 | ・後白河上皇の皇子「以仁王」とともに挙兵( 8月 伊豆の目代:山木兼隆を討つ) |
1181年 | 35歳 | 平清盛病死(2月) 頼朝が後白河法皇に密奏、法皇への忠誠を誓う。源平の共存を申し入れ。→平氏拒絶 源義仲(木曾義仲)平氏を追って入京。→義仲と後白河法皇が対立 |
1183年 | 37歳 | 朝廷では平家追討の恩賞に対して、議論が行われて戦功第一は頼朝とされるが頼朝は上洛せず 10月には、東国諸国の支配権を公的に承認される |
1184年 | 38歳 | 弟の源義経が平氏と戦い、京都から追い払う。 |
1185年 | 39歳 | 壇ノ浦で平氏滅亡 頼朝は鎌倉から動かず、「公文所」「問注所」設置 北条時政らを上洛させ「守護・地頭」の設置を法皇に承認させる |
1189年 | 43歳 | 義経と法皇の接近を恐れ、義経謀反を捏造。法皇に義経追討の院宣を出させる。 頼朝は義経をかばった奥州藤原氏を討つ。幕府の支配が全国に及ぶ。 |
1192年 | 44歳 | 後白河上皇が没し、頼朝が征夷大将軍に補任される |
1198年 | 52歳 | 稲毛三郎重成の妻(政子の妹)の追福のため、新造した相模川の橋の供養に参加。その帰路落馬。 |
1199年 | 53歳 | 死去(死因不明) |
1180年 源頼朝の決起〜敗走〜捲土重来
頼朝の決起〜敗走〜捲土重来 jpg(688KB)挙兵・敗走(伊豆韮山・真鶴石橋山)
再起 房総(安房・上総・下総)
鎌倉へ(武蔵・相模)
鎌倉を守る北の備え 枡形城をはじめとした川崎近隣の城 (4月7日掲載)
※ カーソルが指の形になるところでクリックすると別ページに跳びます出典:枡形城址に立つ説明板より
出典:柿生郷土史料館 情報・研究誌「柿生文化」58号 平成25年3月1日発行
シリーズ 「麻生の歴史を探る」 第28話 稲毛三郎 〜その城〜
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka58.pdf
鎌倉を守る北の備え 枡形城をはじめとした川崎の城 (第2回 4月7日掲載)
威光寺
- 源頼朝が伊豆国で挙兵すると、ほとんどの武蔵武士は源頼朝に従いました。挙兵直後の源頼朝は、石橋山の戦い(神奈川県小田原市)で敗れたのち安房に渡り、そこから上総・下総を制して武蔵国に入っています。10月1日、兄弟の中で最初に合流したのが、阿野 全成(あの ぜんじょう)です。頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾にある威光寺(現在の川崎市多摩区)を治承4年(1180年)に与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚しました。
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源頼朝は、鎌倉幕府草創期に弟の全成(ぜんじょう)を威光寺院主として派遣し、所領を安堵(あんど)するなど同寺を厚く保護しております。これは、幕府の所在する鎌倉の外郭(がいかく)の境界線として、多摩川とその右岸丘陵の軍事的位置を重視したためと考えられます。
- 現在、長尾には威光寺はありません。しかし、長尾にある妙楽寺の土蔵に安置されている木造薬師如来両脇侍像(やくしによらいりょうわきじぞう)を修理した際に、日光菩薩像の胎内から天文14(1545)年の紀年と、「武州立花郡太田郷長尾山 威光寺」以下の墨書銘が発見されました。
参考資料:川崎市HP
小沢城
- 小沢城は鎌倉幕府の北の守りとして天然の要害を利用して築造された山城です。鎌倉時代初頭は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子、小沢重政の居城でした。
鎌倉〜戦国時代にわたり、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いや小沢原の戦い等、いくたびかの合戦の舞台となっています。
参考資料: 「川崎市HP」・「小沢城跡・多摩自然遊歩道を歩く」
枡形城
- 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。
桝形城:写真資料1・写真資料2・写真資料3・写真資料4
作延城
- 鎌倉幕府の御家人・稲毛三郎重成が枡形山城の支城として築城したと伝わっています。
重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の側近として活躍しましたが、頼朝死後の1205年(元久2年)、「畠山重忠の乱」の際に北条義時によって粛清され、その際に作延城は廃城となったと思われます。
有馬城
- 有馬川を見下ろす標高50m の高地にあり、有馬城と呼ばれていました。南裾からは湧水も見られ、瀬戸(せど)と言う屋号の家と地名が残っています。「せど」は城の水源を意味する言葉であると言われています。
都市開発前、城山の標高は現在より約20m高く、矢倉沢往還を展望できたといいます。
参考資料:川崎市宮前区役所 地域振興課発行宮前区歴史ガイドまち歩き その5
井田城
- 北条氏の家臣である矢上城主・中田加賀守が築いたと伝わっています。
現在城址には神奈川県立中原養護学校が建てられており、北西にある「神庭緑地」という公園に高さ2mほどの土塁の遺構が残っています。
加瀬城
- 加瀬城は鎌倉時代に加瀬資親が築いたといわれています。
室町時代にはその立地に着目した太田道灌が居城を構えようとしたという伝承があります。道灌は鷲が自分の兜をくわえて加瀬城の南の丘に落とすという夢を見て、これを不吉として加瀬城の修築をやめたといいます。
榛谷御厨
- 小山田有重の四男である重朝が、支配を任された榛谷御厨に因んで、榛谷氏を称しました。また、榛谷御厨(はんがやみくりや)は、武士が大きな荘園を持つことをまだ禁じられていた時の、抜け道として、伊勢神宮に土地を寄進(年に僅かばかりの絹・紙・年貢など)することにより、この地を治めることを許されたといいます。
参考資料:神奈川県立公文書館紀要 第 7 号 榛谷重朝の基礎的研究
小山田城
- 秩父党である秩父有重が、1171年に小山田荘の別当に任命されて、現在の町田市下小山田町大泉寺の辺りに、小山田城を構えたとされます。
参考資料:柿生郷土史料館 シリーズ 「麻生の歴(史を探る」 第26話 小山田氏と大泉寺
小野路城
- 小山田氏が承安年間(1171年〜1174年)に小山田城の支城として築城したようです。
亀井城
- 源義経四天王の一人亀井六郎の居城か?定かではなく、城跡に建つ月読神社の社伝には、領主小島佐渡守が応仁の乱(1467〜77)の頃に神社を建立したとあります。
戦国時代の後北条氏所領役帳では、布施蔵人佐の所領であったとされます。
秩父一族 稲毛三郎重成
源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。 https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000109.html (川崎市教育委員会HPより) |
稲毛三郎重成の生涯
(武蔵国最大の武士団である秩父平氏の一員・将軍頼朝の義兄弟であり執権北条時政の娘婿)
稲毛三郎重成の1180年
(参考資料:「多摩市史」通史編1)
鎌倉街道 4月21日掲載
鎌倉街道 (上道・中道・下道)
- 鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。 引用:ウィキペディア
- 柿生郷土史料館 発行の情報・研究誌 76号 に掲載された地図を見ると、川崎の南部に鎌倉道の「下ノ道」(古市場・矢口の地名)、中部に「中ノ道」(枡形・作延の地名)、北部をかすめるように「上ノ道」(小野路・関戸の地名)を見ることができる。また中ノ道から枝分かれするように、早ノ道(栗木・黒川の地名)や王禅寺・弘法の松・小沢を通るルートも見ることができる。
- 鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯盛衰の歴史を物語る道である。しかし実態としては詳細な道筋や姿はあきらかでなく「幻の道」と呼ばれています。
- 鎌倉街道の下の道は、「しもみち」「しもつみち」ともいいます。鎌倉と各地を結ぶ幹線道路の1つで、東京を経て千葉や埼玉方面へ行く道です。『港北区史』では奧大道(おくだいどう)ともされています。
- 駒が橋を渡り、川崎市中原区に入り、下小田中(しもこだなか)を経て武蔵中原駅、丸子の渡し(まるこのわたし)へと続くといわれています。これが有名なルートです。大倉精神文化研究所編『港北の歴史散策』、北倉庄一『中世を歩く』、芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅』などはこの説を採用しています。このルートも細かく見ると研究者により少しずつ異なります。旧綱島街道ではなく東側の尾根道を通るという説もあります。この方が古い道だと思われます。
- 横浜市教育委員会編『横浜の古道(こどう)』は、鎌倉街道に関する先行研究は多いが定説といえるものはないこと、中世の道を調べるためには資料がほとんど無いことを理由に、地図へルートを落とすことを断念しています。 『港北区史』でも、記録や文書からは大まかな通過地点が分かるだけであり、正確な場所を地図上に点あるいは線として示すのは困難な場合が多いと指摘しています。
- 柿生郷土資料館・・・・機関紙「柿生文化」の内容が充実しています
- 麻生観光協会・・・・歴史散策参加者を募集しています
中原図書館・・・・「鎌倉時代」をテーマにコーナーがつくられています- 多摩図書館・・・・「いざ鎌倉」と題し、コーナーがつくられています。4月は「人物」5月は「文化・風土」31日まで
- 大山街道ふるさと館・・・貴重な歴史的な資料を保存・展示しています
- 日本地名研究所・・・地名に関する質問ならここです
- 廣福寺・・・木造 稲毛重成 坐像(桃山時代作)が祀られています。また、観音堂の裏には重成の墓といわれている五輪塔が伝えられています
- 公益財団法人 川崎市文化財団・・・・川崎市歴史ガイド発行 (「津久井道と枡形城址」などがあります)
※ 文化財団のHPでダウンロードすることができます (4月19日掲載) - 歴史に親しむ金沢 その1 古代〜鎌倉幕府の滅亡まで
- 鎌倉学 散歩したくなる新しい地域近代史
- 神奈川県ホームぺージ特設ウェブページ(下記 公式観光サイト紹介)
- 観光かながわNOW(神奈川県公式観光サイト)・・・鎌倉殿×13人の御家人たち「ゆかりの地」めぐり
- 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム・・・大河ドラマ館を開館
- 佐野美術館・・・源頼朝・義経や忠臣の活躍、北条氏の隆盛を浮世絵版画でたどります。10月29日〜
- 伊豆の国市 大河ドラマ館・・・北条義時が生まれた地であり、北条家ゆかりの国である「伊豆の国市」大河ドラマ館が開館しました。
- 土橋、茶筅松跡、鞍掛松跡・・・宮前区歴史ガイドまち歩き その1 土橋地区について 川崎市宮前区役所 地域振興課
- 弁慶の鍋ころがし(王禅寺見晴らし公園)・・・麻生観光協会HP・柿生文化127号(柿生郷土資料館)
- 二枚橋・・・川崎市HP 名所旧跡 -麻生区-・柿生文化127号(柿生郷土資料館)
- 寿福寺、弁慶の隠れ穴、弁慶の足跡石、弁慶渡らずの橋、指月橋・・・柿生文化141号(柿生郷土資料館)
- 九郎明神社・・・麻生観光協会HP・柿生文化135号
- 亀井城・・・柿生文化62号
- 第54号 何と空中写真で遺跡が浮き彫りに!“亀井館”と“古代・中世の館”跡か?
- 第55号 「麻生の歴史を探る」第25話 武士の世
- 第56号 「麻生の歴史を探る」第26話 小山田氏と大泉寺
- 第57号 「麻生の歴史を探る」第27話 稲毛重成 〜小山田三郎〜
- 第58号 「麻生の歴史を探る」第28話 稲毛三郎 〜その城〜
- 第59号 「麻生の歴史を探る」第29話 稲毛三郎 〜古民謡五反田節〜
- 第60号 「麻生の歴史を探る」第30話 亀井六郎 〜亀井原〜
- 第61号 「麻生の歴史を探る」第31話 亀井六郎 〜熊野 藤白〜
- 第62号 「麻生の歴史を探る」第32話 亀井六郎 〜亀井城の謎〜
- 第63号 「麻生の歴史を探る」第33話 亀井六郎 〜亀井の館〜
- 第70号 「麻生の歴史を探る」第40話 麻生の古道(1) 尊氏伝承道
- 第71号 「麻生の歴史を探る」第41話 麻生の古道(2) 義貞伝承道
- 第72号 「麻生の歴史を探る」第42話 麻生の古道(3) 義経伝承道
- 第73号 「麻生の歴史を探る」第43話 麻生の古道(4) 高石の古道
- 第74号 「麻生の歴史を探る」第44話 麻生の古道(5) 伝承鎌倉道〜片平
- 第75号 「麻生の歴史を探る」第45話 麻生の古道(6) 〜早の道〜
- 第76号 「麻生の歴史を探る」第46話 麻生の古道(7) 〜歴史の証人〜
- 第94号 外国人が知っていた「日本」とは(2)=中世(鎌倉時代)=
- 第96号 「麻生の歴史を探る」第66話 小沢城(3)
- 第97号 「麻生の歴史を探る」第67話 小沢城(4)
- 第98号 「麻生の歴史を探る」第68話 北条氏関東支配(1)〜小机城
- 第99号 「麻生の歴史を探る」第69話 北条氏関東支配 (2)〜小机支城
- 第100号 「麻生の歴史を探る」第70話 北条氏関東支配 (3)〜小沢ヶ原
- 第101号 「麻生の歴史を探る」第71話 北条氏関東支配 (4)〜印判状
- 第102号 「麻生の歴史を探る」第72話 北条氏関東支配 (5)〜北条検地
- 第103号 「麻生の歴史を探る」第73話 北条氏関東支配 (6)〜北条氏滅亡
- 第123号 多摩丘陵に残る義経の面影1 史話が残されていない?(1)
- 第125号 多摩丘陵に残る義経の面影2 史話が残されていない?(2)
- 第127号 多摩丘陵に残る義経の面影3 弁慶の二枚橋と鍋ころがし
- 第129号 多摩丘陵に残る義経の面影4 義経と笹子姫(その1)
- 第131号 多摩丘陵に残る義経の面影5 義経と笹子姫(その2)
- 第133号 多摩丘陵に残る義経の面影6 古沢の九郎明神社と義経(その1)
- 第135号 多摩丘陵に残る義経の面影7 古沢の九郎明神社と義経(その2)
- 第137号 多摩丘陵に残る義経の面影8 長尾の妙楽寺と義経(その1)
- 第139号 多摩丘陵に残る義経の面影9 長尾の妙楽寺と義経(その2)
- 第141号 多摩丘陵に残る義経の面影10 寿福寺に残る鐙と大般若経(その1)
- 第144号 多摩丘陵に残る義経の面影11 寿福寺に残る鐙と大般若経(その2)
- 第146号 多摩丘陵に残る義経の面影12 寿福寺に残る鐙と大般若経(その3)
- 第148号 鶴見川流域の中世 その8 源平の争乱を生き抜いた武士 小山田有重
- 第149号 多摩丘陵に残る義経の面影13 亀井六郎重清と義経(その1)
- 第151号 多摩丘陵に残る義経の面影14 亀井六郎重清と義経(その2)
鶴見川流域の中世 その11 稲毛庄の定説を見直す 稲毛庄と畠山氏の関わり - 第152号 鶴見川流域の中世 その12 源頼朝の嫡男誕生に鳴弦の役を果たした師岡重経
- 第154号 多摩丘陵に残る義経の面影15 稲毛三郎重成と源義経(その1)
- 第155号 鶴見川流域の中世 その15 賀勢庄の故地「加瀬」と鎌倉御家人加世氏について
- 第156号 多摩丘陵に残る義経の面影−最終回 稲毛三郎重成と源義経(その2)
- 第160号 鶴見川流域の中世 その20 稲毛重成の人物像にせまる(その2)
鎌倉街道上道 歌謡集「宴曲抄 〜善光寺修行〜」
1197年、頼朝が善光寺を参拝。それを機に善光寺参拝の機運が高まり、多くの人が鎌倉街道(上道)を通じて善光寺へと足を運ぶようになったそうです。
鎌倉極楽寺の僧といわれる明空によって編まれた歌謡集「宴曲抄」のなかに鎌倉街道沿いの地名を詠みこんだ「善光寺修行」という作品が収録されています。
吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし@井手の沢辺かとよ、A小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、B霞の関と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をCこひ、かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の・・(略)
@井手の沢辺・・・町田市HPより引用
井出の沢は鎌倉街道の要地と推定され、建武2年(1335年)の中先代の乱のときに、信濃から鎌倉を目指して進んできた北条時行の軍を、足利尊氏の弟、直義がこの地で迎撃し、激しく戦ったといわれています。古戦場は現在の菅原神社付近とされ、境内に石碑、説明板が設置されています。
A小山田の里
小山田城は承安元(1171)年に秩父有重(小山田有重)によって築城されたとされ、近くの小野路城も同時期に築城。そちらには二郎重義が在城。小山田城の支城だったと考えられます。小山田有重の子・小山田三郎重成(稲毛三郎重成)は稲毛領を治め、小山田四郎重朝(棒谷四郎重朝)は保土ヶ谷を治めました。
B霞の関・・・東京都文化財データーベースより引用
鎌倉時代の建暦3年(建保元年(1213))に鎌倉街道に設けられた関の柵跡とされています。和田合戦に関連して滅亡した豪族、横山党の残党に備えて設置された軍事的な関所と考えられます。現在の関戸の地名は、関の戸から付けられたもので、関は「霞ノ関」と称されていました。
Cこひ、かく程(恋が窪)
恋が窪のいわれは定かではありません。なお、B霞の関からC恋が窪に向かう途中に、武蔵国府跡が発見されました。
鎌倉街道 中道 「宮前区歴史ガイドまち歩き」
宮前区では「宮前区歴史ガイドまち歩き」リーフレットを作っています https://www.city.kawasaki.jp/miyamae/page/0000063764.html
鎌倉街道(鎌倉道)だけではありませんが、サブタイトルを見ただけで、興味を惹かれます
馬絹 馬絹古墳と花桃の里
菅生 鎌倉道の面影を偲ぶ
野川 橘樹の古刹と郡衙跡
有馬 有馬の丘と社寺巡り
平 稲毛観音霊場発祥の地
長尾 緑の丘に遺跡を訪ねる
大山街道 多摩丘陵の難所を越えて
南の横大路 御嶽山へつなぐ道
王禅寺道 東の高野山・王禅寺へ
御嶽道 豊作を祈りあるく
鎌倉街道 区内に残る中世の道
鎌倉街道 下道 「公益財団法人 大蔵精神文化研究所」 第111回 近くて遠い鎌倉への道 より
おまけ:鎌倉殿の13人てだれ?いつからいつまで? (勝手にコラボ)
4月11日 掲載
○1199年(建久10年)1月13日…頼朝死去○1199年(建久10年)4月12日…頼家の親裁を停止し、宿老13人による合議制によることが決定
○1199年(正治元年)御家人らの糾弾を受けて 梶原景時失脚(梶原景時の変)。一族とともに滅ぼされる。
○1200年(正治2年) 安達盛長と三浦義澄が病死
合議制解体
○1203年(建仁3年)北条時政の謀略で能員(よしかず)を含めた比企一族は滅亡
○1203年(建仁3年)9月15日…実朝が征夷大将軍に。北条時政が実朝を補佐(執権政治の始まりと言われる)
(実朝の乳母は、北条時政の娘で、母政子の妹の阿波局)
○1205年(元久2年)閏7月19日… 北条政子は弟義時と協力して時政を鎌倉から追放
13人の氏名 |
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北条氏関係 | ||
北条時政 | 頼朝の義父 | ○伊東祐親と工藤祐継がその後北条時政が、頼朝の監視役となる ○娘の政子が頼朝の正妻 ○実質的な権力を握る「執権」の座に就く ○1205年(元久2年)閏7月19日北条政子と弟義時により鎌倉から追放される |
北条義時 | 時政の次男 政子の弟 |
〇18歳の時、源頼朝の寝所(しんじょ)を警護する11名のひとりに任じられる ○比企朝宗の娘「姫の前」を正室にむかえる ○1203年(建仁3年)9月7日将軍頼家は出家。9月15日、実朝が征夷大将軍に。 ○1204年(元久元年)7月18日頼家暗殺。 |
比企氏関係 | ||
比企能員 | ・能員の妻は頼家の乳母 ・頼家は能員の娘若狭局を妻とした |
☆源頼朝の乳母(比企尼)の嫁ぎ先 ○比企尼の甥。 ○頼朝の嫡男で2代将軍となる頼家の乳母父となり、将軍外戚として権勢を強めた ○能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こる ○比企一族が滅亡 |
安達盛長 | 源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍が妻 | ○源頼朝の流人時代からの側近。 ○下総国の大豪族である |
足立遠元 | 足立氏の祖。安達盛長(あだちもりなが)の甥。 | ○頼朝挙兵直後から頼朝に従い側近となる ○文武に優れ、武士ながら公文所寄人となった |
有力御家人 | ||
三浦義澄 | 歴代源氏に従う 頼朝の死後 梶原景時の変 比企能員の変 畠山重忠の乱で北条方であったが 北条氏の挑発を受け幕府軍に対し挙兵(和田合戦) |
○源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦一族は結束して頼朝に応じる。 ○石橋山の戦いでは、三浦一族が着陣する前に頼朝が敗れたため、三浦へ引き返す途中、平家方の畠山重忠らの追撃を受ける。 ○本城衣笠城を攻められ三浦義明(父)は討死、その間に三浦義澄らは安房へ向かい頼朝と合流した。 ○三浦一族は頼朝の全国支配と幕政確立の過程で大きな功績をあげ、幕府の重職に列なった |
和田義盛 | 三浦義明の子である杉本義宗の子 | ○頼朝の挙兵に参加。 ○鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる ○幕府内で抗争が繰り返され、梶原景時をはじめ比企能員・仁田忠常、さらに畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人があいついで失脚、滅亡する中、北条氏に与した。 ○2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦) |
八田知家 | 下野宇都宮氏の2代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男 | ○源頼朝挙兵に早くから参加しており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵される ○従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収。 ○1203年には頼朝の弟の阿野全成が北条氏とともに反頼家派を形成したことから、先手を打って北条氏に対抗した頼家の下知により、全成を誅殺。 |
梶原景時 | 頼朝の嫡男で2代将軍となる頼家の乳母父 | 石橋山の戦いで平家方についていたが源頼朝を助けた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るうが頼朝死後に追放され一族と共に滅ぼされた(梶原景時の乱)。 |
文官 | ||
大江広元 | 鎌倉幕府初代公文所別当・政所別当 | 朝廷で実務経験を積んだ下級貴族。 |
中原親能 | 大江広元の兄 | 京都守護 |
三善康信 | 源頼朝の側近 | 朝廷で実務経験を積んだ下級貴族。頼朝とは伊豆配流時代から通じ、京の情勢を知らせて挙兵を助けた。頼朝死後も幕府の重臣として活躍 |
二階堂行政 | 公家出身の実務官僚 | 大江広元・三善康信と並んで源頼朝を支えた公家出身の実務官僚。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖 |
リンク集(順不同)
※神奈川県「鎌倉殿の13人」連携協議会 (各市町村の公式ページからたどれた「鎌倉ゆかりの・・・」3月30日掲載)
神奈川県、横浜市、横須賀市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、三浦市、秦野市、大和市、伊勢原市、平塚市、南足柄市、寒川町、真鶴町及び湯河原町(残念ながら川崎は入っていません)
ありがとうございました 柿生郷土資料館 さま
柿生郷土資料館
平成22年(2010年)7月、柿生中学校の改築に合わせ、同中学校内に開館。当館は旧柿生村10ケ村と岡上村の「郷土史料館」という位置づけで、郷土の文化を守り、地域に展示公開できるよう務めるとともに、先人の足跡を後世に伝えることを設立の趣旨としている。
麻生観光協会HPより引用
この特集を作成するにあたり、「柿生郷土資料館」の機関誌「柿生文化」をたくさん参考にさせていただきました。