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特集 川崎の戦争遺構
今までのシリーズと違い、川崎市や川崎市教育委員会の公式WEBサイトに、ほとんど資料がありません。実際に戦争を体験した方々がまだ残っている今が、記録を残す最後のチャンスかもしれません。
登戸出張所(登戸研究所) (川崎市地域文化財 記念物(遺跡関係))
歴史
- 1919年(大正8年)4月 陸軍科学研究所を設置
- 1939年(昭和14年)9月 特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として登戸出張所を設置
- 1941年(昭和16年)6月登戸出張所は陸軍技術本部第9研究所に改編
※ 研究内容等、詳細は「明治大学平和教育登戸研究所資料館」WEBサイトへ
追記
・2022年10月から、登戸研究所資料館長・登戸研究所資料館展示専門委員がガイドをする見学会の再開が報じられましたが、2022年分はすべて満席となったとのことです。現在は2023年1月〜3月までの募集をしています。
・明治大学平和教育登戸研究所資料館一般見学は、2021年6月23日(水)より当面の間,事前予約制。祝日は閉館。
東部62部隊と陸軍溝ノ口演習場
○川崎市平和館の説明板の内容
陸軍東部62部隊と溝の口演習場
宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。
○「川崎市中原区・高津区・宮前区の地名 〜変わる町名とそのあゆみ〜」の題でおこなわれた報告会
川崎市主催 報告 日本地名研究所 2019年2月16日・17日
配布された資料の中に
@馬絹・梶ヶ谷に作られた「東部62部隊配置図」
A川崎市域(向ヶ丘・宮崎・上作延・平・菅生・馬絹・鷺沼)及び横浜市域(元石川)にあった「陸軍溝ノ口演習場の地図」があります。
→配布された全資料 →第62部隊配置図のみ →溝ノ口演習場のみ
→配置図から読み取った内容を、1947年の航空写真に落としてました(jpeg:417KB)
(国土地理院航空写真 地図・空中写真閲覧サービス 昭和22(1947)年7月24日米軍撮影の航空写真を一部加工)
- 連隊本部… 現宮崎中学校
- 将校集会場… 現川崎市青少年の家
- 下士官集会所、酒保、歩兵第一中隊(本土決戦教育隊)、歩兵第二・三中隊… 現虎の門病院分院
- その他、風呂場、炊事場、兵舎、被服廠
- 速射砲中隊、機関銃中隊、歩兵第四・五中隊… 現西梶ヶ谷小学校
川崎仮俘虜収容所 POW研究会 公式HPより
川崎分所(川崎大島町) 東京地区で最初に開設された収容所
・1942年8月24日、川崎仮俘虜収容所として、川崎市大島町4丁目に開設。9月25日、東京俘虜収容所第1分所と改称。
・使役企業は日本通運川崎支店など。
・終戦時収容人員205人(英135、米48、豪8、他14)、収容中の死者16人。
川崎扇町分所(川崎扇町)
・1942年11月12日、東京俘虜収容所第1分所埠頭支所として、川崎市(川崎区)扇町に開設。
43年8月1日、第2分所と改称。
・使役企業は三井埠頭倉庫・川崎船舶荷役など。
・終戦時収容人員139人(米59、伊44、英25、他11)、収容中の死者47人。
このうち22人は1945年7月25日の空襲で死亡。
海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊 地下耐強受信所
川崎市平和館設置の説明板より
海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と耐強受信所(地下壕)
昭和5(1930)年6月、旧日本海軍は高津区蟹ケ谷に無線基地を設置し、昭和12(1937)年には「海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊」と改称しました。海軍東京通信隊は本体を海軍省に置き、送信を任務とする船橋分遣隊と戸塚分遣隊、受信を任務とする蟹ヶ谷分遣隊に分かれていました。戦争が激しくなってきた昭和18(1943)年には、当時周囲を山林と竹やぶで覆われていたこの谷戸地に2つの耐強受信所(地下壕)を造りました。旧日本海軍の攻防と併せて世界の情報を傍受し、その内容は東京通信隊本部や日吉の慶應義塾大学構内にあった連合艦隊司令部にも伝えられていたといわれています。
現在残っている耐強受信所(地下壕)は、厚さ40センチメートルのコンクリートでアーチ状に作られ、当時3か所の出入り口がありました。その一部が保存されていますが、立ち入ることはできません。実物の約三十五分の一の大きさの模型を川崎市平和館に展示しています。
※危険ですので立ち入らないでください。
平成17(2005)年3月 川崎市平和館
・川崎市公式webサイト 川崎市平和館 「常設展示 川崎と戦争」へ
・日吉台地下壕保存の会 会報48号 1999年1月20日発行 に、蟹ヶ谷通信隊の関係者を取材した記録があります。
→「日吉台地下壕保存の会」WEBサイトへ
連合艦隊司令部 日吉台地下壕に移転 (川崎市ではないですが・・・)
日吉台地下壕(ひよしだいちかごう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中に大日本帝国海軍が神奈川県横浜市港北区日吉の慶應義塾大学日吉キャンパス地下などの一帯に建設した防空壕。日吉台遺跡群の1つ。連合艦隊司令部や、海軍省人事局・航空本部・艦政本部などの海軍の重要機関が入居する地下要塞として使用された。
(出典 ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典)
※ 日吉台地下壕については、1989年から活動をしている「日吉台地下壕保存の会」のWEBサイトが詳細です。
※ 慶應義塾の許可を受けておこなわれる、毎月2回の定例見学会が一部再開されました。
学童疎開
- 川崎市公式WEBサイト 「平成30年度「川崎大空襲記録展」〜私たちのまちに「空襲」があった〜報告」へ
- 川崎市教職員組合WEBサイト 「輝け杉の子像(川崎市学童疎開記念碑)」
- 川崎市教職員組合WEBサイト 「川崎市の学童疎開は(学童疎開体験ツアー資料より)へ
- 川崎市教職員組合WEBサイト 「川崎市学童疎開の体験「(川崎市学童疎開副読本)輝け杉の子」より抜粋」へ
- 川崎市教職員組合WEBサイト 大山学童疎開読み物資料3点
探照灯
- 麻生区古沢・・・第二次世界大戦中に古沢288番地、海抜70mの地点に探照灯が据えつけられ、昭和19年9月より昭和20年8月17日まで使用されたと言われています。「川崎市公式WEBサイト」
- 川崎区 小田公園・・・戦争中に敵の飛行機を探すためのサーチライト (探照灯) が置かれた台なのです。(写真の説明として) 「リーフレット」へ
- 宮前区 鷺沼北公園・・・東京空襲のために飛来する米軍機に対する探照灯が、宮前平3丁目の八幡坂上には高射砲陣地が、それぞれ置かれていた。 「宮前区ガイドブック」へ
- 宮前区 西梶ヶ谷小学校あたり・・・東部62部隊が外地へ派遣する招集兵や、東京近郊部隊の演習地にするため、広大な土地が接収されました。現宮崎中学校から虎ノ門病院分院あたりに連隊本部や兵舎が置かれ、その南西一帯は樹木を伐採した演習地となり、高射砲や探照灯も置かれました。 「宮前歴史ガイド」へ
- 宮前区 鷺沼北公園(梵天山)・・・鷺沼北公園辺りには、土橋探照灯陣地があった。土橋の第15中隊には、93式照空灯が6基、91式が1基設置されていた。 「タウンニュース」へ
- 麻生区 古沢・・・「平和の碑 探照灯基地跡」の石碑。石碑には「海抜70mの地点に探照灯が据えつけられ、昭和19年9月より昭和20年8月17日まで使用された」と刻まれています。 「川崎市公式WEBサイト」へ
- 多摩区 小沢城址・・・多摩区の丘陵地帯には米軍の空襲に備え数か所の探照灯基地がありました。この付近の窪地にも防空隊の探照灯基地があり兵舎や電源車と共に探照灯や聴音機などが設置されていました。(探照灯は高空を飛ぶB29爆撃機を照射し高射砲と連携して攻撃します。)「小沢城址里山の会設置の説明板より」
- その他・・・麻生区五力田、多摩区桝形城址、中原区上丸子天神町、宮前区土橋、にも探照灯陣地があったそうです。探せばさらに増える可能性もあります。
川崎大空襲
昭和20(1945)年4月15日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受けtた。投下された爆弾量は照明弾90発、通常爆弾72発、破砕爆弾98発、焼夷弾12,748発。市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害であった。
- 川崎市における戦災の状況(神奈川県) 総務省
- 「川崎大空襲から70年「語り継ぐことが課題」2015.3.20タウンニュース
- 「図面屋」として軍需工場」2021.8.13タウンニュース
- 「惨禍を語り継ぐ」20224.8.
- 「南武線のはじまりと戦争(なんぶせんのはじまりと せんそう) 」2019.1.25川崎市公式WEBサイト
- 「川崎空襲・戦災の記録」2016.7.1川崎市公式WEBサイト
- 川崎市公式webサイト 川崎市平和館 「常設展示 川崎大空襲」
- 「川崎大空襲」川崎教育文化研究所 WEBサイト
- 「[映像] 「あの忘れない日 川崎大空襲1945年4月15日」(8分55秒)」
- 川崎市教職員組合 川崎大空襲読み物資料3点