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特集 「川崎の古墳」
川崎市にも、西福寺古墳や馬絹古墳をはじめとして、いくつもの古墳があります。しかし、古墳をはじめとした埋蔵文化財は、宅地造成など開発に伴い消滅していっています。全てを保存できないまでも、しっかりと調査し記録だけでも残すことが必要だと感じます。
【湮滅(いんめつ)した代表的古墳】 (湮滅:あとかたもなく消えうせること。)
○加瀬台古墳群にあった「白山古墳」・・・全長87m・後円部径42m・同高10m・前方部幅37m・同高5mで4世紀後半に作られた大変に立派な前方後円墳だったようです。後円部中央からは「三角縁神獣鏡」が副葬品として出土しています。そんな立派な古墳も、土砂採掘のために削平され墳丘は消滅しました。
消滅する前、付近の道路の拡張工事中に、後円部下方から、粘土の土台に河原石を敷き詰めた上に火葬人骨の詰まった骨壺が置かれた遺構が発見されました。この壺は12世紀後半の作で、ススキ・ウリ・柳などの秋草やトンボなどの文様が描かれたこの壺は、国宝に指定されました。
【リニア新幹線の工事で湮滅しそうな古墳】
○「片平富士見塚古墳」・・・築造当初は、直径約18m、高さ約2.2mの円墳だったと推定されています。測量調査だけですのでそれしかわかりません。ここは、リニア中央新幹線の片平非常口になるようです。
(まちづくり局 「まちづくり委員会資料」 令和2年7月16日)
公式なものではありませんが、「片平富士塚古墳の発掘調査」について言及している動画がありました。(「リニア中央新幹線 片平非常口」で検索しました)調査結果は公表されているのでしょうか???
川崎の古墳
※ 「川崎の古墳」のPDFはこちら(PDF:2569KB )
○古墳とは、「古人の墓」全般を指す語であった。しかし現在は、「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓/高塚の墳墓」を「古墳」と呼び、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓」、奈良時代の墳丘墓は「墳墓」、中世の墳墓は「中世墳墓」、近世の墳墓は「近世墳墓」と呼んで、それぞれに区別する。(参考資料:Wikipedia)
○市内には、これまで61基の古墳が確認され、うち43基が現存する。(「県史跡・東高根遺跡 〜公園に眠る古代遺跡〜」 小薬一夫著 川崎市民アカデミー 発行 川崎学双書シリーズ4)
県指定文化財(史跡)・市指定文化財(史跡)
- 西福寺古墳
西福寺古墳は、南武線武蔵溝ノ口駅の南方、約2.1kmに位置しています。昭和39年から施工された梶ケ谷土地区画整理事業の際、関係機関の協力があって公園内に史跡として永久保存されることになりました。
現状保存が決定された後、実測調査がなされ、東西径29.3m、南北径27.3m、高さ4.9mの円墳であることが判明しました。川崎市教育委員会では、昭和45年8月26日、西福寺古墳を市重要史跡に指定しました。
その後、神奈川県教育委員会においても、この古墳が南武蔵でも埴輪をともなう遺存良好な高塚古墳であることを評価し、県指定史跡に指定されました。 古墳と周辺の保存整備事業を実施する一環で、昭和57年8月に整備上必要な範囲の確認調査が実施されました。
【結果の要約】
○形状・・・築造時の墳丘径と形態は、直径35m、高さ5.5mの正円形に近い円墳。周溝は、上端で幅6.0〜7.5m、深さ70〜80cm。
○埴輪・・・出土した埴輪は、円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪の3種類で、水鳥の頭部が1点含まれている。
墳丘裾部に樹立していた埴輪は、周溝内に自然堆積した第4層の堆積直後から徐々に壊れ落ちていったものと推測。
○石室・・内部主体は未発掘であるが、墳丘部の南側に若干落ち込みが認められ、おそらくその部分に、横穴式石室が崩壊しているものと推測。
○築造年・・・埴輪の年代を採用し、5世紀後葉から6世紀初頭と考えられる。
公式WEBサイト 掲載ページ
・川崎市教育委員会 文化財さんぽ 高津区 西福寺古墳
・川崎市教育委員会 指定文化財等紹介 史跡 西福寺古墳 - 馬絹古墳
馬絹古墳は、田園都市線梶ケ谷駅の南方約1.2kmに位置しています。宅地造成が計画されたために、昭和46(1971)年に発掘調査が実施されました。全長9.3mの大形の横穴式石室を内部主体とする円墳であることが判明しました。
神奈川県教育委員会では、馬絹古墳が南武蔵における終末期古墳として、その教育的・学術的な価値が高いことを認め、県指定史跡に指定されました。
保存整備活用事業の一環で、平成2年確認調査がなされました。
【結果の要約】
○形状・・・直径約33mの円墳。墳丘の北側斜面には1重、東・南・西側斜面には2重の葺石。周溝は、幅約3.5m前後、深さ1.5m前後で、南東側の台地斜面部で途切れる。
○横穴式石室・・・奥室・中室・前室からなる複室構造。切石と切石の間には、比較的広く白色粘土を塗布。玄室左側壁に円文、鏡石に図柄不明の文様が描かれている。石室の床面には、全面にわたって小礫が敷かれていた。
○副葬品等・・・盗掘を受けていたので、副葬遺物等不明。木棺に打ちつけたと思われる鉄釘が、奥室部を中心に79点。数量と発見位置から推測して、木棺は複数個であったものと思われる。
○築造年・・・1尺が29.6cmの唐尺で設計されたと考えられることから、7世紀後半代と推測。
公式WEBサイト 掲載ページ
・川崎市教育委員会 文化財さんぽ 宮前区 馬絹古墳
・川崎市教区委員会 指定文化財等紹介 史跡 馬絹古墳
・宮前区歴史ガイドまち歩き 馬絹古墳と花桃の里
・宮前区 みやまえ魅力スポット寄ってこ!ガイド【馬絹古墳公園】
・宮前観光協会 お散歩コース C鷺沼・宮崎エリア 馬絹コース - 蟹ヶ谷古墳群 (市内に 現存する唯一の前方後円墳)
神庭特別緑地保全地区内にある古墳群で、平成24年度からの調査で、 全長約27mの前方後円墳1基(1号墳)、直径約18mの円墳2基(2・3号墳)、非常に低いマウンドを持つ円墳2基(4・5号墳)の計5基が確認されました。
1号墳は出土した埴輪の年代から、古墳時代後期から飛鳥時代前期にかけて築造されたと考えられています。その他の古墳については、特定できていません。
平成30年度の調査で、第4号墳は、埋葬部がないことが確認され、祭祀を行った場所である可能性が高くなってきました。また、第5号墳は古墳ではない可能性が出てきました。
公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 かわさきの文化財 文化財ニュース 蟹ヶ谷古墳群の現地見学会を開催しました!
川崎市教育委員会 蟹ヶ谷古墳群 図面
川崎市 遊歩道・散歩道 江川・井田山の散歩道
高津区 高津区を歩こう 江川・神庭緑地コース(花香る せせらぎの道と蟹ヶ谷古墳)
「川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査と神庭遺跡」 - 加瀬台(夢見ヶ崎)古墳群 ( 全長87mの前方後円墳・三角縁神獣鏡出土・秋草文壺(国宝)出土)
夢見ヶ崎の台地上には、現在わかっているだけでも11基もの古墳や古墳と考えられる塚が築かれていました。これらの古墳は総称して加瀬台(夢見ヶ崎)古墳群と呼ばれており、4世紀後半から7世紀後半にかけて築造されたと考えられています。
○【白山古墳】 (湮滅)4世紀後半頃に築かれた 武蔵国でも最も古い大形の前方後円墳で、全長は87mを測ります。
昭和12(1937)年に発掘調査され、遺体を安置した主体部からは鏡類・玉類・鉄器類など多量の副葬品が発見されました。なかでも 三角縁神獣鏡(さんかくえん(ぶち)しんじゅうきょう)と呼ばれる青銅製の鏡は初期の大和政権から分け与えられたと考えられるもので、中央との関係を物語る重要な資料です。
昭和17(1942)年の土取り工事中に、白山古墳の後円墳下部から掘り出された、火葬された人骨が詰まっていた壺は、後に 国宝となる秋草文壺(あきくさもんつぼ)です。
○【第六天古墳】 (湮滅)墳径は19mを測ります。昭和12年の発掘調査では、横穴式石室から勾玉(まがたま)や金銅製鈴などの副葬品とともに11体もの遺骸が発見されました。
○【1号墳・5号墳】 (湮滅)
○【3号墳】横穴式石室内部を見る事が出来る
○【4号墳(了源寺古墳)】獣身鏡(じゅうしんきょう)2面・鉄斧が出土した
○【9号墳】横穴式石室を持つ
公式WEBサイト 掲載ページ 川崎市教育委員会 市内文化財案内 文化財さんぽ 幸区 夢見ヶ崎
幸区 古墳マップ 夢見ヶ崎周辺の遺跡分布
幸区 幸市民館・図書館日吉分館 日吉地区の郷土 加瀬山
幸区 夢見ヶ崎周辺の魅力 夢見ヶ崎周辺は、魅力がいっぱい! 歴史
幸観光協会 さいわい歴史散策コース
緑政局 令和4年 まちづくり委員会資料 夢見ヶ崎動物公園再整備の基本的な考え方について - 富士見台古墳
古墳は公園の中に保存されていますが、道路に面した古墳の麓が大きく削られてしまい、墳丘もやや変形してしまっています。現存する部分の墳径は17.5m、高さ3.7mを測ります。
子母口村の鎮守であった橘樹神社の社伝では、「日本武尊東征の際、尊は相模(さがみ)から海路で上総(かずさ)まで行こうとしました。ところが、海は恐ろしいほど荒れ狂い、尊の行く手をさえぎってしまいました。そこで、弟橘媛は荒れる海中に自らその身を投じ、尊のために海を鎮めました。やがて、入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着しました。」と伝えれれている。
また、古事記には「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」とあり、この2つが結びつき、富士見台古墳は「御陵」とされてきた。
公式WEBサイト 掲載ページ 川崎市教育委員会 文化財さんぽ 高津区 橘樹神社と富士見台古墳 - 根岸古墳群
向ケ丘遊園駅の西方約700m、多摩川の沖積低地に臨む細長い丘陵の上に、この古墳群(5基)があります。
○第1号墳:直径11.5m・高さ1.6mの円墳
○第2号墳:第1号墳のすぐ西側にあり、直径11.3m・高さ1.6mを測る円墳
○第3号墳:東西径約14m・南北約14.8mで、高さが1.8mの楕円形をした円墳
○第4号墳:東西径約18.5m・南北約19m、高さ2.2mを測る円墳で、5基の古墳の中では最大
○第5号墳:直径10mで高さ1.1mほどの小規模な円墳
古墳には、葺石(ふきいし)や埴輪(はにわ)などの外部施設はまったくなく、周溝(しゅうこう)もめぐらされていません。
小円墳が多くまとまる群集墳という形態をとっていることから考えると、7世紀後半から8世紀頃にかけて築かれた古墳時代終末期の古墳群であろうと思われます。
川崎市 文化財さんぽ 多摩区 根岸古墳群 - 早野横穴墓(正確には墳丘がないので古墳ではない)
丘陵斜面に穴を掘り、その中に死者を葬った古墳時代の墓の一種で、市内では多摩川や鶴見川に面した斜面から群集して発掘されています。時期的には、7〜8世紀ごろに盛んにつくられました。
早野横穴墓は、昭和47年(1972)に偶然に発見されました。発掘調査の結果、この横穴墓は副葬されていた土器(須恵器(すえき)等)の年代から判断して、7世紀中葉に築かれたものであることがわかりました。
早野横穴墓の最大の特徴は、横穴の奥壁等から線で刻んだ絵(線刻画)が認められたことです。奥壁中央には、太い眉毛(まゆげ)とあご髭(ひげ)をたくわえた人物顔面が、そして、その下側には人物顔面と疾走する馬5頭が描かれ、うち1頭は、あきらかに人物が騎乗した状況を描いています。
公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 文化財さんぽ 麻生区 早野横穴墓 - 生田長者穴横穴墓群(正確には墳丘がないので古墳ではない)
生田長者穴横穴墓群は、この飯室山の北麓に築かれた横穴墓群です。江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』でも紹介されているところをみると、その存在は古くから知られていたようです。
昭和42年(1967)宅地が造成されることになったため、川崎市教育委員会では2度にわたる発掘調査を実施しました。その結果、3つの小さな開析谷に、合計32基にも及ぶ横穴墓が群集していることがわかりました。
出土遺物や横穴墓の形態などから、7世紀中頃から後半にかけて築造された、集団の家族墓や一族の墓ではないかと考えられます。
公式WEBサイト 掲載ページ 川崎市教育委員会 文化財さんぽ 多摩区 生田長者穴横穴墓群