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特集 「川崎の遺跡」
今川崎で一番熱い遺跡は、平成27(2015)年3月10日に川崎市初の国史跡に指定された「橘樹官衙遺跡群」でしょう。
「国史跡 橘樹官衙遺跡群」は、武蔵国橘樹郡の役所跡である橘樹郡家[郡衙]跡(千年伊勢山台遺跡)と、その西側に隣接して造営された古代の寺院跡である影向寺遺跡から構成される古代官衙の遺跡です。
「影向寺遺跡第33次調査の現地見学会」が令和4年9月23日(金・秋分の日)に開催されました。
→→9月23日の現地見学会で配布された資料 (10月1日掲載)
(講座のお知らせ) (9月29日 掲載)
令和4年度橘樹学連続講座「古代橘樹を知り、活用する!!」(川崎市主催講座)
内容:「橘樹官衙遺跡群周辺の景観と植物」
講師:山田 晋(東京農業大学農学部生物資源開発学科 教授)
日時:令和4年11月12日(土) 13時30分〜15時30分
会場:橘樹官衙遺跡群及びその周辺
参加費:無料
申込締切:10月17日
調べてみると、他にもワクワクドキドキするような遺跡が、川崎にもあるんです。
- 鷲ヶ峰遺跡・・・川崎最古の石器なんと33,000年前
- 宿河原縄文時代低地遺跡 (市重要歴史記念物)・・・漆器(椀・櫛)・編籠・木の実など多量に出土
- 下原遺跡(市重要歴史記念物)・・・縄文時代に稲作
- 神庭遺跡・・・縄文・弥生・古墳 各時代の住居跡多数。土・石器の破片数は数千点出土
当時の暮らしを考えるとわくわくしませんか?
川崎の遺跡(旧石器時代から古代)
石器時代の史跡
鷲ヶ峰遺跡 (川崎市指定 有形文化財(美術工芸品))
- 川崎市内での旧石器時代遺跡の調査事例が少ないため、鷲ヶ峰遺跡は川崎の旧石器時代を語る上で非常に重要な遺跡です。
狩りに使ったとみられるナイフ形石器のほか、木や骨などを加工する際に使う削器や彫器、石器を製作する際に出る石の剥片、使用した痕跡のある剥片などが50点ほど、数ヶ所のまとまり(ブロック)に分かれて出土しています。
約33,000年前頃と15,000年前頃の二つの旧石器時代の文化層が確認されており、このうち約33,000年前の第2文化層は麻生区の早野上ノ原遺跡と並んで川崎市域で最も古い遺跡です。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
・文化庁 文化遺産オンライン 鷲ヶ峰遺跡旧石器時代出土品
・川崎市教育委員会 鷲ヶ峰遺跡(2021年)
・川崎市教育委員会 指定文化財等紹介 考古資料 鷲ヶ峰遺跡旧石器時代出土品(2017年)
・川崎市教育委員会 かわさきの文化財 文化財ニュース 新たに「鷲ヶ峰遺跡旧石器時代出土品」を川崎市重要歴史記念物に指定しました(2016年)
旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡
早野上ノ原遺跡
川崎市教育委員会 早野上ノ原遺跡第6次調査 現地見学会を開催します!(2021年)
川崎市教育委員会 早野上ノ原遺跡第4次発掘調査現地見学会を実施しました!!(2018年)
縄文時代の遺跡
宿河原縄文時代低地遺跡 (市重要歴史記念物)
- 西地区からは、土器類と石器類が出土しています。土器類は縄文時代草創期後半の撚糸文系土器群から早期初頭の無文系土器群が中心で、石器類は、スタンプ状石器を主体にして礫器・敲石・石皿・磨石・打製石斧様石器などが出土しています。
縄文時代草創期後半から早期初頭にかけて、内水面の水際環境で行なわれた植物性食料の加工の痕跡を示す遺跡として貴重で、神奈川県内では最も古い事例であると同時に国内においても数少ない事例となっています。
東地区からは、縄文時代後期前半の完形に近い個体を含む土器類や石器類のほかに木製品と自然遺物が出土しています。特に通常の遺跡では残ることの少ない漆器を含む木製品類と種子などの植物性遺物類が、低湿地状態の中で保存度良く、残されていたことが大きな特徴です。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育員会 指定文化財等紹介 考古資料 宿河原縄文時代低地遺跡出土品(2018年)
十三菩提遺跡
- ひと口に縄文時代といっても、今から12000年位前から2600年位前までのことをさしますので、考古学の研究上、この長い時間軸を細かく区切る指標が必要であります。その指標となるのが縄文土器で、理由は土器の表面に飾られている文様が、時代により、地域により細かく微妙に変化しているからです。その目盛りになる遺跡を標式遺跡と呼んでいます。
十三菩提遺跡は、前期の十三菩提式土器の標式遺跡です。昭和44年の調査では、十三菩提遺跡の竪穴(たてあな)式住居跡が発掘されています。この時期の住まいの跡の発見はたいへん珍しく、市内ではここだけです。しかし、十三菩提遺跡の主要部分はすでに湮滅(いんめつ)してしまいました。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 十三菩提遺跡(2018年)
子母口貝塚(県指定史跡)
- 縄文時代早期後半、約7,000年前のもので、多摩丘陵上で最も古い貝塚として有名です。4ヶ所のうち2か所が現存しています。貝層はマガキが約半分を占め、それにヤマトシジミ・ハイガイ・オキシジミ・ハマグリと続きます。また、子母口式土器(土器の粘土の中に草などの繊維を入れ、また、表面には貝殻で引いた線や、竹などに巻いた紐を押しつけてつけた文様などがあります)は、関東の縄文土器編年約50型式の一つ「子母口式」の標式遺跡となりました。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 子母口貝塚(2018年)
川崎市教育委員会 子母口貝塚(2010年)
権現台遺跡
- 昭和33年(1958)の発掘調査で、五角形というたいへん特異な平面形をした中期の竪穴(たてあな)式住居跡とか河原石を4.5×3.5mの範囲に配した中期終末の配石遺構が発掘されています。権現台遺跡の配石遺構の東と西の端からは、二つに折られた石棒が2本据(す)えられるようにして発見されています。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 五所塚と権現台遺跡(2018年)
仲町遺跡
- 昭和45年(1970)に発掘調査され、半地下式の竪穴(たてあな)の床面(ゆかめん)に扁平な河原石を敷き詰めた住まいの跡でした。発見された土器から判断して、縄文時代中期末の今から4,000年ぐらい前と推測されています。住居内からは、土器のほかに打製石斧・磨製石斧・石皿・磨石(すりいし)などの生活用具が一緒に発掘されています。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 仲町遺跡(2018年)
潮見台遺跡
- 潮見台浄水場建設に伴う事前調査として台地の全面が発掘されました。その結果、縄文時代早期(約7000年前)の住居跡2軒・炉穴3基、同中期(約4000年前)の住居跡12軒、平安時代(約1000年前)の住居跡1軒、同時代の火葬墓1基が発見されました。
住居群の中央の空間は共同の作業場や祭りの場となっていたと思われ、この時期の典型的な村の形態を示しています。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 潮見台遺跡(2018年)
下原遺跡(市重要歴史記念物)
- 下原(しもっぱら)遺跡は、東名高速道路建設の事前調査として昭和40・41年(1965・1966)に発掘されました。その結果、縄文時代中期・後期・晩期・弥生時代後期、古墳時代前期と、各時代の遺構が見つかり、長期間にわたって村がつくられていたことがわかりました。遺跡の主体は縄文時代晩期(約3000年前)のものです。石器では、石皿・磨石(すりいし)・石斧などのほかに約600本という異常な数の石鏃(せきぞく)が発見されています。土器では、注口(ちゅうこう)土器や壺などのほかに、すかし彫りの入った工芸的にも優れた台付の坏(つき)や、東北地方の大洞(おおぼら)系の土器なども出土しています。出土した木製品の中では特に小形赤漆椀、赤漆塗結歯式竪櫛、完成度の高い小形編籠は、工芸的にも優れており、全国的に見て縄文時代後期前半の技術文化を知るうえで貴重な資料です。縄文時代晩期前半の土器の胎土21試料中10試料からイネのプラント・オパールが検出され、当該期の下原遺跡においてイネの栽培が行われていたことが明らかになりました。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 下原遺跡(2018年)
川崎市教育委員会 下原遺跡縄文時代後・晩期出土品(2018年)
縄文時代〜 の複合遺跡
長尾台遺跡
- 第一次調査が昭和45(1970)年の夏に行われ、縄文、弥生、古墳時代の竪穴住居跡約30軒が発見されました。同年冬と翌年の調査では、縄文時代前期の住居跡1軒、弥生時代後期の住居跡3軒、古墳時代の住居跡2軒の合計6軒の住居跡と溝状の遺構が発見されました。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 長尾台遺跡(2010年)
神庭遺跡
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県立中原養護学校建設の事前調査として発掘されました。その結果、縄文時代中期(約4500年前)が41軒以上、弥生時代後期(約1700〜2000年前)が93軒以上、古墳時代のもの44軒以上、という合計185軒をこえる膨大な数の住居跡が発掘されました。
縄文時代の住居は、台地の縁にそって見つかっており、中央部分が広場となるこの時期の典型的な馬蹄形(ばていけい)集落をなしていました。
弥生時代は、この遺跡の最盛期にあたり、広範囲で濃密に住居跡が分布しています。
古墳時代では、初めの頃はまだ集落が継続されていますが、中頃になると住居数は急激に減少し、一時的には集落が途絶したものと考えられます。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 神庭遺跡(2018年)
千年伊勢山台遺跡
- 千年伊勢山台遺跡は高津区千年の丘陵上に営まれた縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。このうち、古代橘樹郡の役所にかかわる遺跡を「橘樹郡家(郡衙)跡」といいます。
- 川崎市教育委員会 橘樹官衙遺跡群【千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]】(2015年)
国史跡 橘樹官衙遺跡群
- 武蔵国橘樹郡の役所跡である橘樹郡家[郡衙]跡(千年伊勢山台遺跡)と、その西側に隣接して造営された古代の寺院跡である影向寺遺跡から構成される古代官衙の遺跡です。 橘樹官衙遺跡群は、地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることのできる貴重な遺跡で、その成立の背景や構造の変化の過程が分かり、7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知るうえで重要であるとして、平成27(2015)年3月10日に川崎市初の国史跡に指定されました。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育員会 橘樹(たちばな)官衙(かんが)遺跡群の国史跡指定を国の文化審議会が答申しました!(2014年)
川崎市教育員会 『橘樹官衙遺跡群(橘樹郡衙跡・影向寺遺跡)総括報告書[古代編]』一般販売を開始しました!(2015年)
川崎市教育委員会 橘樹官衙遺跡群 川崎市初の国史跡指定について(2015年)
川崎市教育委員会 国史跡橘樹官衙遺跡群(2017年)
川崎市教育委員会 国史跡橘樹官衙遺跡群保存活用計画(2018年)
川崎市教育委員会 橘樹官衙遺跡群【影向寺遺跡】(2019年)
川崎市教育委員会 史跡橘樹官衙遺跡群の整備について(2019年)
川崎市教育委員会 影向寺遺跡第33次調査の現地見学会を開催します!(2022年)
新作小高台遺跡
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新作小学校建設に先立って、昭和54・55年(1979・1980)に発掘調査されました。80軒以上の各時代の住居跡と、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)といわれる弥生時代から古墳時代にかけての墓などが見つかりました。
南側の急斜面と谷からは市内でも珍しい中世の井戸、掘立柱(ほったてばしら)遺構、土壙墓(どこうぼ)と思われる地下式壙、住居の柱跡、杭列跡と考えられる小穴、赤土を貼って床状にした遺構等が見つかりました。
常滑(とこなめ)を中心とした日常容器が見つかっていますが、その中には、中国の龍泉窯系の製品も多く混ざっていました。このことなどから考えても、この周辺が普通の一農村というより地侍(じざむらい)的な階層の人々の居住地としての可能性が考えられています。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 新作小高台遺跡(2018年)
岡上丸山遺跡
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岡上小学校の建設に伴い、昭和59年(1984)から昭和61年にかけて事前の発掘調査が行われました。縄文時代から奈良・平安時代までの複数の時代にまたがる集落遺跡であることが明らかになりました。
縄文時代の中期から後期にかけて、20軒以上の竪穴(たてあな)住居が建てられていました。ちょうど馬の蹄(ひづめ)のような形に住居が並んでいるので、馬蹄(ばてい)形集落と呼ばれています。
古墳時代後期には約30軒、奈良・平安時代には約60軒ほどの住居が建てられていました。この時代の住居には、竈(かまど)が造り付けられていました。出土遺物には、多量の土師器(はじき)・須恵器(すえき)などの土器や、紡錘車(ぼうすいしゃ)・土錘などの土製品、鉄鏃・刀子(とうす)・鎌などの鉄製品があります。
「岡上」と墨で書かれた須恵器は、現在の地名が平安時代までさかのぼる可能性を示唆しています。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 岡上丸山遺跡(2018年)
弥生時代の遺跡
梶ヶ谷神明社上遺跡(市重要歴史記念物)
- 弥生時代中期の竪穴住居址と遺存状態のよい土器、石器、鉄器、玉類が発見された土器は、宮ノ台式が大部分であるが、第1次・第2次調査を通じ、その遺存状態のよい個体が多い。第1次調査で出土した22個体のうち12個体がほぼ完全な形で出土し、残りの個体も口縁部ないしは底部を折損しただけの個体でした。また、第2次調査からも12個体のほぼ完全な形の土器の出土しています。
大陸系磨製石器群である太形蛤刃石斧、抉入片刃石斧とともに、板状鉄斧が出土したことも大きな特徴です。弥生時代中期後半は石器から鉄器への移行時期であることが推測されていますが、そのことを裏付ける出土状態を示しています。 - 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 梶ヶ谷神明社上遺跡(2018年)
川崎市教育委員会 梶ヶ谷神明社上遺跡出土品(2011年)
東高根遺跡(県指定史跡)
- 昭和45年8月に県・市教育委員会が予備調査を実施しました。その結果、遺構・遺物の遺存状況がきわめて良好な古代遺跡であることが判明しました。トレンチで確認できた遺跡は、竪穴住居址62軒でした。これらの竪穴住居址は、重複するものが少なく、したがって遺構としての遺存状況はきわめて良好なものと推測されました。遺構は台地全域にわたって散在しているものと考えられ、その数も総数では100〜150軒を優に越えるものと推測されています。当初より現状保存とされていたために十分な調査はされていませんが、弥生時代後期(3世紀頃)から古墳時代後期(8世紀頃)までの長期間継続したものと考えられています。特に集落跡としての最盛期は、弥生時代後期にあたったと考えれれています。
- 公式WEBサイト 掲載ページ
川崎市教育委員会 東高根遺跡(2010年)
川崎市教育委員会 東高根遺跡(2018年)